あやめの前伝説の考証

平成30年2月2日

7月21日追記

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まり、久々にこの時代の本などを読んでいたら色々付け加えたい事があったので加筆します。 

                       令和4年2月20日

令和4年6月加筆


なぜあやめの前伝説は作られたのか?

 

 あやめの前伝説は小倉神社縁起書、小倉寺由来記、福成寺縁起由来記などの古文書を基にして作られたそうです。過去に「物語にして多くの人に伝えたい」人物がいたから、今日まで伝説になって残されているのだと思います。「あやめの前」がどんなに素晴らしい人だったかを伝えたい気持ちで書かれた物語。多少の誇張や脚色はあったと思います。信じがたいエピソードもあります。

 

 「あやめの前伝説」は全くの作り話、という方もいらっしゃいます。しかし、それを証明することはできません。また、本当にあった話だったということも証明は出来ません。

歴史は、解釈の仕方でずいぶん変わってきます。どうせなら、本当にあった出来事として考えた方が面白くはないでしょうか。

 

 墓や神社やお寺が残されているということは、何か基になる人物がいて逸話(いつわ)があったはずです。我が地域に残る伝説です。子供たちの夢をこわさないように、物語に信ぴょう性を持たせるため、素人なりに考証してみたいと思います。

 

また、小学生にも分かるように語句の解説・読みがなもつけていきます。長くなりますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。もとになる話は東広島市のホームページにあるものです。


菖蒲の前伝説(東広島市HPより)

その1


高僧の祈祷
 今から八五〇年前の昔、近衛院の仁平三年の春のことです。時の帝近衛院は夜な夜な現れる怪物に怯えられ、病気は重くなるばかりでした。高僧が祈祷しましたが、効き目はありませんでした。


鵺退治
 兵庫頭頼政に怪物退治を命じられました。雲の中の光るものに矢を射かけ、怪物に命中してギャアッという声とともに落ちてきました。猪早太が怪物をしとめました。帝は元気になられました。
見事鵺を退治した手柄により、頼政は当時美貌で評判の高かった菖蒲の前と結ばれました。


帝(みかど)

  天皇陛下のこと 天皇を引退すると上皇、出家すると法皇と呼ばれる。

  次の天皇になる子供は皇太子、その他の子は皇子(おうじ・みこ)と呼ばれる

近衛院(このえいん)

  第76代天皇 近衛天皇

鵺(ぬえ)

  頭は猿、尾は蛇、足は虎の怪物

兵庫頭(ひょうごのかみ)
  役職の名前:官位は従五位上

  安芸守(あきのかみ)、備後守(びんごのかみ)などの「守」も「かみ」と読むがこちらは従五位下と官位が低い。

  


考証その1

「鵺退治」は平家物語に出てくるお話ですが、なかなか信じがたい話ですね。その他の資料にも 第78代天皇 二条天皇の時に鵺退治した記録があります。

 この時代の日本は、まだまだ医学や科学が未熟(みじゅく)な時代です。この頃の人々は体調の不具合、台風や地震、雷、火山の噴火などの天災、日食や月食などの不思議な現象をすべて、神や祟りの力によるものと考えていました。

実際のこの時代の政治の中には陰陽寮(おんようりょう、おんみょうりょう)と言われる、占い、天文、時間、暦の編纂(へんさん)を担当する機関があり、天皇のお住まいになられる内裏(だいり)のすぐ近くに屋敷があったそうです。そこに安倍晴明(あべのそうめい:この時代よりもっと前に活躍した陰陽師)などで知られる陰陽師(おんみょうじ)が待機し、何か異変があるとすぐに駆け付け祈祷(きとう)やお祓い(おはらい)をしていたそうです。

また、当時はその日見た夢で吉凶(きっきょう)を占っていたそうです。ヌエという漢字は「夜」に「鳥」と書きます。もしかしたら夢に鵺が出てきて帝はうなされていたのかもしれません。ですから、この鵺退治もあながち嘘ではないエピソードなのかもしれません。頼政の武士としての立派さを大げさに表現するために取り上げられたのかもしれませんね。

 

頼政はこの功績によってあやめの前を妻(側室)としますが、源平盛衰記にこんな話があります。

 

源平盛衰記陀巻第十六(wikipedia「香道」より)

 

 『鳥羽院の女房に菖蒲前という美人がおり、頼政は一目ぼれをしてしまう。頼政は菖蒲前に手紙をしばしば送るが、返事はもらえなかった。そうこうしているうちに三年が経過し、このことが鳥羽院に知られてしまう。鳥羽院は菖蒲前に事情を聞くが、顔を赤らめるだけではっきりとした返事は得られない。そこで、頼政を召し、菖蒲前が大変美しいというだけで慕っているのではないか、本当に思いを寄せているのかを試したいと発願する。そこで、菖蒲前と年恰好、容貌がよく似ている女二人に同じ着物を着せ、頼政に菖蒲前を見分けて二人で退出するように申し付けた。頼政は、どうして院の御寵愛の女を申し出ることができようか、ちょっと顔を見ただけなのに見分ける自信がない。もし間違えれば、おかしなことになり、当座の恥どころか末代まで笑いものになってしまうと困って躊躇していると、院から再び仰せがあったので、「五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引きぞわづらふ」(五月雨が降ると沢の岸に生えている真薦も水に隠れてしまいます。そうなると水中に生えている菖蒲との区別もできなくなり、どれを引けばよいのか困ってしまいます)という歌を院に奉る。院はこれに感心し、菖蒲前を頼政に引き渡す。』

 

鳥羽院の女房とありますが、当時は仕える女性のことを女房と呼んでいました。

 

さらに後、南北朝時代を舞台にした軍記物「太平記」にもこの二人は登場します。

 

巻第二十一(その2) 塩治判官讒死事(ざんしのこと)

(参考:http://cubeaki.dip.jp/taiheiki/taiheiki/taiheiki21-30/taiheiki-21-2.html)

 

『ある時、月も傾き夜も静まって、荻の葉を吹き抜けてくる風が身にしみるように感じられる頃、真都(しんいち)と覚都(かくいち)検校(盲人に与えられる最高の官名)の二人が平家物語を歌っていたのですが、「近衛院の御時、宮中の紫宸殿の屋根の上に、鵺と言う怪鳥が飛んで来て、夜な夜な鳴き声をあげるのを、源三位頼政が勅命を受けて射落としました。この手際の良さに上皇は大変お喜びになり、紅色の御衣を差し当たっての褒章として、頼政の肩に掛けられました。『この殊勲に報いるには、如何なる官位の下賜であろうと、領主不在地の分与と言えども不十分である。本当なのか知らぬが、最近頼政は藤壺の菖蒲に思いを寄せて恋焦がれているようだ。今夜の功績には、この菖蒲を与えるのが良いだろう。しかし、頼政はこの女を話に聞いているだけで、実際に見たわけではないので、同じような女性を多数揃えて困らせれば、訳の分らない恋をしたものだと笑うだろう』と仰せられ、後宮三千人とも言う侍女の中から、花がやっかみ月も妬むと言う程の美女を十二人、同じような装束に身を包んで、それほど薄暗くない、金色のうすぎぬを垂らした内側に控えさせました。それから頼政を清涼殿の孫廂(母屋から出ている廂の外側にある廂)に呼び入れ、更衣(後宮に仕える女官)を勅使にして、『今夜の殊勲に対する褒賞として、浅香の沼(歌枕)のあやめを下さることになりました。ご面倒かもしれませんが、自ら手を取って連れ帰り、自分の妻にすれば良い』と、仰せられたのです。頼政は帝の指図によって、清涼殿の大床に手をかけておられましたが、歳の頃なら十六ばかりの女性で、絵にも描けないばかりの美しさを、なおも華やかに着飾り、薄紅色の美しい顔に艶めかしさを含んで並んでいましたから、頼政は心の動揺を抑えることも出来ず、目は宙に浮き、どなたが菖蒲なのか分らず、手を取る気持ちも失せてしまいました。この様子に更衣はお笑いになり、『水かさが増えれば浅香の沼にある菖蒲も、紛れて分らなくなるのでしょう』と申されますと、頼政は、「五月雨に 沢辺の真薦 水越えて 何菖蒲と 引くぞ煩ふ 」と、詠まれました。その時近衛関白殿が頼政の歌に感じ入り、耐え切れずに席を立つと、自ら菖蒲の前の袖を引き、『この方こそ貴家の妻女だよ』と言いながら、頼政に下さったのです。頼政は鵺を射ることによって、弓箭に関しての名誉を得ただけでなく、一首の歌を詠んで帝を感激させ、長年恋焦がれてきた菖蒲の前を賜るという、考えられないような結果もまた名誉なことです」』

 

ちょっと手が加えられてきていますね。こうして語り継がれていくうちに脚色が入り、物語が変わっていくのかなと、思います。

 


側室(そくしつ)

  身分の高い階層における一夫多妻制(いっぷたさいせい)において、本妻(ほんさい)である正室(せいしつ)に対する  呼び名


菖蒲の前伝説(東広島市HPより)

その2

宇治川の戦い
 治承四年頼政は横暴な平家を倒すために以仁王を奉じて、戦う準備をしていました。計画が漏れて平家に攻められ、宇治川に負け、宇治の平等院で辞世の歌を残して自害しました。

 

  「埋木の 花咲く事も なかりしに 身のなる果は あはれなりける」

 

西国へ落ちる
 頼政が謀反を起こしたため平家方が菖蒲の前を探していたので、西国へ逃れることになりました。菖蒲の前は頼政の子を懐妊していましたが、三才の若君 種若丸と猪早太の三人で賀茂郡下原村の滝の近くに逃げてきました。


以仁王(もちひとおう)
  第77代後白河天皇の第三皇子
懐妊(かいにん)
  身ごもっているという意味・妊娠している状態


考証その2

一般的に宇治川の戦いというと、1184年の【源(木曾)義仲×源範頼・義経】の戦いのことをいいますが、頼政が戦ったのは「宇治の戦い」です。

「以仁王(もちひとおう)の挙兵」と呼ばれる事件で、1180年に天皇の相続から外れることになってしまった以仁王は平家討伐を計画し頼政に協力を頼んだが、平家にばれてしまい追われることになって起きた戦です。(平家物語ではちょっとニュアンスが違っています)

この時に諸国の源氏に向けて平家討伐(へいけとうばつ)の令旨(りょうじ:皇太子などが出す命令)を出し、これを受けて源頼朝や義経、源(木曾)義仲らが挙兵し源平合戦(げんぺいがっせん)へとつながります。

 

当時の日本はざっくりと分けて京より東が源氏、西を平氏が支配していたと思われており源氏方のあやめの前一行が「西国へ落ちる」のはおかしい、だからこの物語はウソだと言われることがあります。

しかし、実際には東にも平家方はたくさんいたし、西にも源氏方はたくさんいました。頼政は1173年に備後守(広島県福山市や尾道市の辺り)の役職についていますから、何かしらの伝手があったのかもしれません。身内や知り合いなどがいてもおかしくありませんね。

さらに頼政の郎党に渡辺党という武士団がいて摂津渡辺津という所を本拠地としていました。頼政の居館もここにあったと言われています。今の大阪市ですが昔の淀川河口付近だったそうです。「津」ですから港があります。義経が屋島の戦いに出発したのもこの渡辺津からと言われています。

 

いくら側室とはいえ従三位の妻であり天皇に仕えた高い身分。逃げるとはいえ、家来一人というのはあり得ない。また、頼政は事前に挙兵を計画しているため、前もって関係者を都から脱出させる準備が出来ていたと思われます(自宅に火をかけて逃げたという記録がある)。当時の都の人たちは戦が起こると戦火に巻き込まれないように都から逃げていたそうです。このことから家来数十名を連れて、都を出ることは可能だったと思われます。また、頼政は平清盛とずっと共に働いていて、清盛の働きかけで従三位の官位を貰うくらい信頼が厚かった。ということは頼政の見方は平家方にもたくさんいたはずです。また、頼政の次男兼綱は、平時忠の以仁王追撃の軍に加わっていたことから、頼政の謀反(むほん:うらぎること)はぎりぎりまでばれなかったという説もあります。

そして、当時は瀬戸内海の海上交通は発達しており、船なら大人数での移動も可能。また数え年で3歳と言えば満年齢では1歳か2歳、そんな小さな子供もおり、妊婦ともなればその身体を案じて、海上を選択したのは当然とも思えます。

 

*広島県呉市安浦町に「稚児の明神の伝説(菖蒲の前一行が立ち寄りお参りしたとされる)」が残っています。


数え年(かぞえどし)

  生まれた時を1才とし、年(正月)を超えるごとに1つ年が増える。12月31日に生まれればその日は1才で、翌日の1月1日に2才になる。


菖蒲の前伝説(東広島市HPより)

その3
種若丸を弔う
 しばらくしてかわいそうに若君は長旅の疲れがもとで病死しました。菖蒲の前は平家方に気づかれないようにひっそりと自分で若君を埋葬しました。その墓は後に滝の観音と言われるようになりました。菖蒲の前はその子をかわいそうに思い歌を詠みました。
東子や 千尋の滝の あればこそ 広き野原に 末をみるらん

 

男子誕生
 それからしばらくして菖蒲の前は、下原村の寿福寺で男子を出産し豊丸と名付けました。成人の後は水戸新四郎頼興と名乗りました。菖蒲の前は庵を建立して頼政の像を納めました。今の観現寺です。


寿福寺(じゅふくじ)
  いまの徳行寺(当時寺があったのは図書館の辺りだったといわれます)

水戸新四郎頼興(みとしんしろうよりおき)

観現寺(かんげんじ)

 


考証その3

この物語最大の疑問点のある箇所ですね。それは菖蒲の前の年齢。1204年8月27日に菖蒲の前は78才で亡くなります。頼政が自害したのは1180年5月26日。どんなにギリギリで逃げたであろうと考えても、頼政の子を出産するには1181年にはここにいなければならない。亡くなった時から逆算すると菖蒲の前は54才。当時平均年齢15才で結婚、出産していた時代にちょっとこれは信じがたい。(記録では1180年10月18日に豊丸は生まれている)

広島県の安浦に残る伝説「稚児の明神」では菖蒲の前は乳母(うば)と共に参拝しお乳が出るようになったとあります。ということは、妊娠中もしくは出産して間もない女性がいたということになります。

 

下の家系図を見ると頼政はたくさんの子を養子にしています。また自分の子の広綱を長男の仲綱の養子としています。当時は養子に出したり、迎えたりすることは頻繁に行われていたようです、また身分の高い人から生まれた子は長男でなくても後継ぎになっていたりもします。

身ごもっていたのは息子たちの妻の誰か、そして種若丸も養子か孫と考えるのが妥当ではないでしょうか?

いづれにせよ、残された大事な後継ぎ、誰の子供であろうと一族で守ろうとするのは当然でしょう。


乳母(うば)

  母乳の出の悪さは乳児の成育に直接悪影響を及ぼし、その命にも関わった。そのため皇族や貴族では、母親に代わって乳を与える乳母を召し使った。また、身分の高い人間は子育てのような雑事を自分ですべきではないという考えから、乳離れした後、母親に代わって子育てを行う人を召し使った。これも乳母という。

乳母に世話を受ける養い子にとって、乳母の子供は「乳母子(めのとご)」「乳兄弟(ちきょうだい)」と呼ばれ、格別な絆で結ばれる事があった。


菖蒲の前伝説(東広島市HPより)

その4

我が園よ
 
長かった源平の戦いは源氏が勝ち、頼政の功績にたいして菖蒲の前は後鳥羽院から、賀茂一郡を賜りました。菖蒲の前は「我が園よ」と喜び、下原村を御薗宇村と名を改めました。

二神山に城を築く

 菖蒲の前は二神山に城を築き、領地を治めました。菖蒲の前は菩提寺として、東条の三永にある福成寺を再建しました。

二神山を賊が攻める
 菖蒲の前は平穏に暮らしておりましたが、ある時賊が城に夜討ちをかけてきました。城方は懸命に戦いましたが、ついに城は落ちました。菖蒲の前は白馬に乗り原村の河内田を通って逃げました。


源平の戦い(げんぺいのたたかい)

  以仁王の挙兵に端を発し、源頼朝ら源氏が平氏討伐のために挙兵。1180年から1185年の6年間にわたる内乱のこと治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)とも言われる。主な戦いは1184年3月20日の「一の谷の戦い」、1185年3月22日「屋島の戦い」、そして平氏滅亡となった1185年4月25日「壇ノ浦の戦い」

後鳥羽院(ごとばいん)
  第82代天皇・後白河天皇の孫で壇ノ浦で亡くなった安徳天皇の異母弟となる

御薗宇(みそのう)

菩提寺(ぼだいじ)
  先祖代々の墓や位牌をおき、菩提を弔う寺

福成寺(ふくじょうじ)


考証その4

1191年に後鳥羽天皇より源頼政の功により賀茂一郡を賜った。福成寺は源平合戦の折、平氏が立てこもり焼失していたそうです。西条の国分寺も範頼軍との戦いで焼失しています。

 

攻めてきた賊は土肥遠平(どいとおひら)といい(三浦掃部介との説もある)、源頼朝が打倒平氏と蜂起した時からの御家人で、石橋山の戦いに敗れた時北条政子に頼朝の無事を伝えたのは遠平と言われています。

また源平合戦では源範頼軍に従軍し、その功により沼田の荘を賜った。のちの小早川家の祖となります。  

 二神山が攻められた理由はわかりませんが、当時はまだ領地の奪い合いも頻繁に起こっていたので、そういうことかもしれません。

 

小倉山縁起には「馬洗渕~河内田、塔の嶺を西へ逃げた」との記述があります。現在の八本松カントリークラブと二神山の間くらいから戸石川を遡り、温井川の馬橋あたりから新生園、光路台団地を抜けて姫が池にいたったと思われます。


源範頼(みなもとのりより)

頼朝の弟、義経の兄

源平合戦(治承承久の乱1180年)の時範頼軍は陸路を西に進み、義経軍は海路を西に進み最終的に壇ノ浦で合流した。

 

小早川家

毛利元就の三男小早川隆景、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。小早川秀秋(岡山藩主)などがいる。

 


菖蒲の前伝説(東広島市HPより)

その5

鶴姫池に飛び込む
 池のあるあたりで追っ手が近くまで迫ってきましたので、侍女の鶴姫が菖蒲の前の身代わりになることを決心しました。鶴姫は着ていたものを取り替えて「菖蒲の前の最後を見よ」と叫んで池に飛びました。この池は後に「姫が池」と名付けられた。

菖蒲の前愛馬に懇願
 菖蒲の前は懸命に逃げましたが、再び賊が迫ってきましたので馬から降りて愛馬に、お前の腹の中に私を隠してほしいと頼みました。馬も納得したので馬の命を絶って腹の中に隠れました。賊は馬が崖下に死んでいるのを見て、菖蒲の前も死んだものと思って去りました。水が迫の滝のあたりといい、ここに馬頭観音が祀られている。


考証その5

この辺のエピソードは脚色だと思われるのですが・・・・。

主人を守るために身代わりになることは当たり前だった時代なので不思議ではないですね。

この時に鶴姫がもっていた持仏(携帯できる仏像)が為本地域の西福寺に保管されていたそうですが、当時の物は盗難に遭い、代わりの仏像を作ったけどそれも行方不明らしいです。

 

さて、年齢問題の次に苦戦したのがこの愛馬の件です。当時の馬はポニーくらいのサイズと言われています。78才で小柄であれば不可能ではないサイズ。実際に腹の中に入らなくても馬と一緒に谷底に落ちたと見せかけることは可能かもしれない。また、物語では一人で逃げているように思われるが、当時の女性は馬に乗る時は横向きに乗っていたと思われます。

余談ですが、男性がズボン女性がスカートを履くという風潮は昔馬に乗って戦いを始めだしたころ男性が戦いに出ておりズボンの方が乗りやすい、しかしズボンは作るのに手間がかかる、だから女性は着物見たいに布一枚巻くだけで済む服装になったと言われています。

話しがそれましたが、横向きに乗っていると馬を操れませんから「口取り」とか「くつわとり」などと言われる馬を引っ張る人もいたはずですし、この後すぐに従者とともに小倉山へ入っているので、それらの力を借りたことも考えられます。

しかし、一番の問題は場所。実際現場を訪ねると、滝と呼ぶにはどうかと思うほど小さな滝、落差も1m~2m。鶴姫の死体を確認するためにわざわざ池の中を探した連中がこの程度のところで諦めて帰るのだろうか?たとえ腹の中に隠れたとしてもすぐにばれるでしょう。

国土地理院2万5千分の一地図です。(縮尺は変わっています)

水が迫のあたりです。「迫」という地名はたいてい谷筋につけられることが多いですが、谷底に降りるのをあきらめるほどの、そこまで大きな谷はないです。

ちょっと拡大

〇印の所が滝のある場所

送電線と道路から、上の地図のどの辺りか察してください。

これがその場所

 

信じがたいですよね

これは昭和4年に発行された5万分の一の地図(縮尺は変わっています)。〇印に注目。この地図の等高線は20mおきですので、上の地図と同じに見るには等高線と等高線の間にもう一本等高線が入ります。崖の表示もみられますね。これでも菖蒲の前の時代から750年は経っています。

 また、この辺の地質は花崗岩で風化が進んだものが多くみられ、真砂土の部分も多く崩れやすい地質です。実際、近年台風による大きな土砂崩れが起きています。(ふくろうHP八本松八十八石仏、山コース2を参照)。

750年前にはもっと深い谷があったかもしれません。

  ごうごうと流れる滝ではなかっただろうけど、地図を見る限り20~30mの崖があったことは考えられる。長年に渡って谷が埋まり、地名と滝の名前だけが残り、今の場所になっているのではないだろうか?

とすれば、馬のエピソードもまるっきり否定できるものではないですね。

平成30年7月豪雨でもこの周辺では何か所も大きな土砂崩れが起きました(平成30年7月追記)

 

そして、もう一つ。今と当時の植生がどのくらい違ったのかはわからないけれど、今と同じと仮定して考えるとこんな山道を馬で行くのは困難だったのではないでしょうか?

今でこそ人の踏み跡があるから何とかなるかもしれないけれど、山頂に向かうに従い傾斜もきつくなってくる山。

夜討ちが仕掛けられたのは旧暦の1月16日。もし天気が晴れだとしたら満月。月明りで結構遠くまで見えたのではないだろうか。追ってから隠れるために山に入らなければいけなかった。しかし馬が邪魔になる。生かしておいたら山中に逃げ込んだのがばれてしまうかもしれない。殺す必要があって、ちょうど深い谷があった。ここへ落してしまえば松明の明かりでも光は届かないだろうし、こんなに深い谷へ降りてまで探さないだろうと考えたのかもしれない。

20年も住んでる菖蒲の前一行、多少の土地勘もあったはず。馬を捨てて山を越え二神山方面へ戻ることを考えたとしても不思議ではないと思います。


菖蒲の前伝説(東広島市HPより)

その6(最後です)


小倉山に住む
 菖蒲の前は曽場山の山中に入り、無事追ってから逃れられました。菖蒲の前が逃れた所は、生まれ故郷の京の小倉山に似ていましたので、小倉山と名付けました。庵を建て髪をおろし西妙と改名され、頼政・種若丸・鶴姫・愛馬を弔いました。

洞窟で笛を吹く
ある時西妙は死が近いことを予感して、辞世の歌を詠まれました。
定めなき 世を浮きごとに 見限りて 菩提の道に 入るぞうれしき

 人々に、今から土の洞窟に入って笛を吹くが笛の音がしている間は決して中を見ないようにと、言いつけられた。六日後に笛の音が止みお亡くなりました。元久元年(一二〇四)八月二七日のことです。

小倉大明神
 その後、菖蒲の前は小倉大明神として祀られました。また多くの家臣たちは銘々に墓を作り、やがて後を追いました。今でも菖蒲の前の墓を守るように、家臣の墓が並んであります。



考証その6

無事に追っ手から逃れたあやめの前一行は山中をさまよいとある場所に辿り着きます。その場所は生まれ故郷(伊豆長岡の説もありますが、とりあえず無視で)の京都の小倉山に似ているので「小倉山」と名付けたらしい、が・・・。この写真をご覧あれ。

写真の中央辺りが小倉山といわれる付近。

こちらが京都の小倉山。渡月橋で有名な嵐山の対岸、桂川の左岸にある山です。

正直似てるとはいえませんね。

しかし、これは京都の小倉山付近から見た京都盆地

そしてこちらが八本松の小倉山付近からみた西条盆地。

 

どうです?似ていませんか?

 

菖蒲の前は曾場ヶ城山の北側から南側にある小倉山へ逃げてきました。おそらくこのときに初めて「ここから」西条盆地を眺めたのでしょう。死に物狂いで逃げてきて、やっと落ち着ける場所に辿り着いた所らから眺めたこの景色。懐かしい都を思い出すのも無理はありません。

これは、小倉山から二神山方面を見た写真です。写真中央の左にある大きな建物の後ろが二神山。さらにその後ろに見えるのが福成寺のある洞山です。
かつて自分の暮らした所や菩提寺が見える場所。

 

また、霧が出るとこんな景色になります。

京都の小倉山もここと同じように東側に盆地が広がり、こんな風に朝日が昇ってきたでしょう。

ここを終の地にしたとしても不思議ではないですね。

さあ、最後の考証です。洞窟に入って死ぬまで笛を吹き続ける…。洞窟ではなく庵という記述もあります。

今ではちょっと信じがたい話ですが、真言宗や天台宗などのいわゆる密教では食を絶ち瞑想を続けて絶命し仏になるという考え方があります。即身仏や即身成仏と言われるものですが、実際に日本には18体こうしたミイラが残っているそうです。奥州藤原氏のミイラも有名ですね。ここまで厳しいものではないかもしれないけれど、死期を悟った信心深いあやめの前が浄土への旅立ちとしてこうしたことをしたとしても不思議ではないと思います。「菩提の道に 入るぞうれしき」この一言に尽きるのではないでしょうか。

ちなみに観現寺も福成寺も「真言宗」のお寺です。


頼興と猪隼太のその後

水戸新四郎頼興
 成人後、厳島神社の神主家佐伯の娘を嫁にした。土肥遠平の襲撃の際、闇に乗じて7才になる薗菊姫を観現寺の勝谷右京に預け、頼興自身は福成寺に逃れ匿われました。観現寺に匿われた薗菊姫は、のちに勝谷右京の子彦太郎と夫婦になっています。頼興の妻と若君の豊之丞(3歳)は家臣の一久治衛門に伴われ、妻の実家厳島神社の佐伯方に逃れました。一二一四年一月七日に妻は病死しています。一久治衛門は遺髪を切り取り、豊之丞を伴って、頼興のいる福成寺に戻りました。妻の死を悲しみ、五輪塔をたて菩提を弔いました。福成寺境内に、菖蒲前縁の墓として今に伝わっています。その後頼興は豊之丞と家臣渡辺新之介を連れ新たな新天地を目指しましたが、途中、豊田郡の西氏方に逗留中病にかかり、享年37才で波乱に満ちた短い人生を終えたと伝わっています。

猪隼太
勝谷右京(勝屋とも)と名を改め観現寺を守り、ここで84歳で亡くなりました。


以上で考証は終わりです。かなり無理矢理な所もありますが、学問の歴史は様々な書物や記録からたくさんの方が研究されて、こうではなか?ああではないか?と調べられた記録。残されている書物も、当時書いた人間の脚色や感情によって事実とは違っている可能性もあります。悪者はより悪く、ヒーローはもっとかっこよく、悲劇のヒロインはより物悲しく誇張されていると思います。また、自分にとって都合の悪いことはねつ造されて残した可能性もあります。今を生きる人に真実はわかりません。が、こうやって過去に思いを巡らせ想像することが歴史の楽しさだと思います。今も研究が続けられ、科学の進歩によってこれまでわからなかったことが分かるようになってきています。歴史は変わります。「これは間違いだった」となることもあるでしょう。が、各地に伝わる伝説や伝統芸能、お祭りなどこれもまた歴史。後世に残していくことが、今の私たちがやるべきことではないでしょうか。原小学校で毎年行われる「表現 菖蒲の前伝説」、私が通学していたころにはありませんでした。菖蒲の前伝説を習うこともありませんでした。この表現を始められた先生方に大変感謝します。この後も絶やすことなく続けてほしいと思います。最後までお付き合いありがとうございました。